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ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) はイギリス海軍の重巡洋艦。カウンティ級重巡洋艦の1隻。艦名はノーフォークに因む。その名を持つ艦としては4隻目。 ==艦歴== 1927年7月にゴヴァンのフェアフィールド造船造機会社において起工され、1928年12月に進水した。就役は1930年4月30日だった。1931年9月、ノーフォークは後に「インヴァーゴードン反乱」として知られる反乱の舞台となった。その後1932年まで本国艦隊に所属し、1932年から1934年まではアメリカの西インド諸島方面で任務についた。1935年から1939年まで東インド方面で行動した後、改装のため1939年に帰国した。第二次世界大戦が始まったときはまだ造船所のドック内にあった。 1939年、戦争の勃発にともないノーフォークは本国艦隊の第18巡洋艦戦隊に配属され、ドイツの装甲艦アドミラル・シェーアばかりでなく巡洋戦艦(軽戦艦ともいわれる)グナイゼナウとシャルンホルストなどの追跡任務についた。そしてそれによって受けた多数の損傷の修理を行ったが、それが主要部分の改装に及ぶことはなかった。ベルファストで行われた最初の修理は、戦艦ロイヤル・オークを撃沈したドイツ潜水艦U-47の魚雷の至近弾によるものであった。 その後まもなく、ノーフォークは激しい空襲によって損傷を受け、クライド川においてさらなる修理を受けることを余儀なくされた。そしてこれらの修理がすべて完了した後、タイン工廠で新兵器 - レーダー・セットの装備が行われた。 1940年12月、ノーフォークは南大西洋において、K部隊の一員としてフリータウンから出発する船団護衛に任ずると共に、アドミラル・シェーアの、そして1941年1月には、仮装巡洋艦コルモランの捜索を命じられた。2月には大西洋の兵員輸送船団の護衛任務についたが、5月にアイスランド海域に戻された。ノーフォークはビスマルクを視認した2番目の船となった。そして戦艦ロドニーとキング・ジョージ5世がビスマルクを沈めるまで追尾しつづけた。9月からは苛烈な北極船団の護衛を担当した。ノーフォークは輸送船団JW55Bが1943年12月26日にシャルンホルストの攻撃を受けたとき、それを護衛する巡洋艦部隊の一員であり相手に3発の命中弾を与えた。シャルンホルストは退避し、後に戦艦デューク・オブ・ヨークの部隊に撃沈された。(北岬沖海戦) その戦闘で損傷を負ったノーフォークはタインにおいて修理に入ったため、歴史的なノルマンディー上陸作戦には関与できなかった。 1945年1月11日から12日にかけての夜、ノーフォーク、軽巡洋艦ベローナ、駆逐艦オンスロー、オーウェル、オンスロートはノルウェー沖でドイツの船団を攻撃、3隻中2隻を撃沈したほか護衛の艦艇の内1隻(掃海艇M273)も撃沈した。 戦争が終わると、ロンドンに5年間亡命していたノルウェー王室をオスロに運んだ後、プリマスを発って、非常に重要な修理のためにマルタに向かった。その後、東インドで東インド艦隊司令長官の旗艦を勤めた。 1949年、帰国したノーフォークは予備艦となり、1950年1月3日にスクラップとしてブリティッシュ・スチール社(BISCO)に売却された。同年2月14日から19日にかけてニューポートに移動し、22年間に及ぶ栄光の生涯に終止符を打った。本艦は「ノーフォーク」の名を持つ軍艦の栄誉ある系統の最後に位置している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノーフォーク (重巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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